震災1年で思うこと

circus06

2012年03月10日 09:03

昨年の震災から、1年が経ちました。
経ちましたと言うか、まだまだ災害は現在進行形です。



昨年の3月11日の午後、
僕は取引先の営業さんと、会社の商談室に居ました。

商談室から出ると事務所の人から、
「宮城で凄い地震があったらしいで。」と聞きました。
その時の感想はただ、へえぇ。 でした。


PCでニュースなど見てると、
千葉でガスタンクが爆発だとか、TDLで液状化現象だとかの報道。

???
なんで宮城の地震で、千葉のガスタンクが爆発するんや?
帰りの車のラジオからは、
「大船渡が街ごと津波に流され、壊滅した模様。」
「南三陸町と連絡が取れない。」

等々。


言ってる意味が解りません

過去の地震報道では、
「この地震による津波の心配はありません」とか、
もしあっても、「10cmの津波が到達」とか、そんなのばかりでしたよね。

僕は恥ずかしながら、津波というのはいくら大きくても、ちょっとした水害と同じような、そんなイメージしか持っていませんでした。
(ちょっとした水害、という表現は語弊があるかもしれませんが。)




夜になって、テレビの映像に衝撃を受けました。

大変なことが起こった。

押し寄せる海水、街が呑まれる。

ここの人達は、みんなちゃんと逃げたんやろうか。。。






翌朝、更地になった街の中継に、言葉もありませんでした。

そんな中、
「あっ!人が歩いています!!!」レポーターの叫び声。
歩道橋の残骸のそばを歩いている人。
志津川病院の屋上で物資を求める人の映像も流れてきます。



生きている人がいる。。。

感動しました。





仙台に、知人がいます。
僕が広島時代にお世話になった方で、広島から仙台に引越しをされていたのです。
先ず、このSさんご一家のことが頭に浮かびました。

広島の別の方が 当日いち早くSさんと連絡を取ってくださり、僕にもSさんの無事を知らせてくれました。
僕も直接話したいと思いつつ、
現地では恐らく携帯電話の電池も貴重であろうことを思うと、落ち着くまでは、電話をするのは憚られました。

だいぶん経ってから電話をしますと、
妹さんの家が無くなってしまったそうですが、
身内や友人等直接つながりのある人で、亡くなった人はいないとのことでした。

この妹さん、一旦避難しかけて、忘れ物を取りに事務所に戻ろうとしたところを職場の人に引き止められ、
お陰で命拾いしたそうです。




地震のあと、原発事故のことがだんだんと、本当にだんだんと、ゆっくりと、徐々に、判ってきました。


東電批判満開ですが、「東電が悪い」とひと括りにするのは少々乱暴ではないでしょうか。
所長をはじめ東電の現場スタッフに限って言えば、彼らは命懸けで尽くしたと思っています。
命懸け。← 前首相がホイホイ使っていた、彼の好きな言葉ですね。


原発問題に関しては、思うことはいろいろあります。
ただ、立地住民の方々の心情などデリケートな問題も含みますので、
ちょっとここでは差し控えます。




住むところを失った人や、原発の立ち入り禁止区域の人も含め、
今もたくさんの人が不自由な生活をしています。
心に癒えることない傷を負った人も、たくさんいます。

この方々に、「頑張ってください。」なんて上から目線のことは言えません。

僕はまだまだそんな、人を応援するに足る人間ではないと思うし、
阪神大震災を乗り越えた経験者でもありません。

「オマエに言われんでも頑張ってるわい!」と叱られます。





休みのたびに のんきに魚釣りに行けるのは、幸せなことです
釣果はともかくとして。

この次も多分、釣行レポートになると思います。
多分です。

関連記事